
1: 七波羅探題 ★ 2026/06/19(金) 07:02:38 ID:bjGi6X4G9.net 東洋経済2026/06/19 05:30 「オイルショックも痛手に」…泣く泣く売却された「中大・駿河台キャンパス」不運すぎる閉校の顛末 「国のせいで膨大な赤字」「オイルショックも痛手に」…泣く泣く売却された「中大・駿河台キャンパス」不運すぎる閉校の顛末少子化と都市計画の波に揺れた中央大学。かつて都心で熱気を帯びていた駿河台キャンパスは、数々の"想定外"に翻弄されながら多摩へと移転することに。その決断の裏側とは?東洋経済オンライン 少子化が進んだことで、大学キャンパスを移転・再編し、学部・学科の新設・再編を絡める動きが相次いでいる。 そして、その背景には社会の変化や法律の影響、様々な人間ドラマがある。 昼間部の定員1450人に対して、入学者数は毎年5500人前後と、4倍近い学生を受け入れていた駿河台キャンパス時代の中大。 人数が多すぎるが故に、長時間立ちっぱなしの学生が続出し、中には雀荘や名画座に避難する者もいたというから、1960年代の熱気がうかがえる。 アンケート調査では、4割以上の学生が学生生活を「楽しくない」と答えたわけだが、そんな中大にも変化が訪れる。 78年の、文系全学部の駿河台から多摩キャンパスへの移転だ。 大学本部ごとの大規模な移転として注目を集め、73年に郊外開学した筑波大と盛んに比較された。 だが、当初から多摩への全面移転の構想があったわけではない。 中大が初めて多摩に校地を購入したのは60年だが、実はその時点ではまったく使い道を決めていなかった。 では、なぜ購入したかというと、56年に施行された「大学設置基準」で、学生数に応じた校地・校舎の整備が必要になり、「(前略)駿河台校舎以外の土地を購入することで、基準の校舎面積を達成しようとした(後略)」(『中央大学史紀要』第22号 2025年)からだ。 つまり、とりあえずの間に合わせとして買ったのだ。 背景として59年に施行された「工場等制限法」で、都心では大規模な工場や大学の新設・増築が制限されたこともあっただろう。 1964年にようやく「中央大学施設計画委員会」が設置され、多摩校地の活用が検討され始める。 実はその時点では、多摩を売却して、他の校地を購入する案も出ていた。 しかし、「地主が買収に協力したのは『中央大学の教育施設が設置され、それと共に地元が発展することを期待していたからであって、道義的に考えても処分は困難』(後略)」(『中央大学140年のあゆみ』)という意見があり、多摩校地が第一候補に決まる。 地主への道義を重んじて多摩を選んだというエピソードが生真面目な中大らしいが、一方で、多摩ニュータウン計画の周辺地域であったことも決め手だったという。 今後地域の発展が見込めそうなことや、「(前略)開発による交通事情の変化への期待(後略)」(『中央大学史紀要』第22号 2025年)があったそうだ。 また、単純に「安かった」ことも大きかったのだろう。 検討された他の6つの候補地は坪単価7000〜3万5000円だったが、多摩校地はなんと約990円。 「(前略)他の六ヵ所と比べて桁違いに安価であった。」(『中央大学140年のあゆみ』)。 そうして、66年に「多摩校地に教養課程を移転する」という計画が決定する。 しかしこの計画は、激化する中大紛争の影響で審議が中断されてしまう。 2000年に多摩モノレールの「中央大学・明星大学駅」ができるまで、多摩キャンパスに最も近い駅は京王線の「多摩動物公園駅」だった(写真:筆者撮影) ここから中大は、法律や規制、社会情勢、そして自らの計画の不備による"想定外"に右往左往しながら、何度も計画を変更していく。 まず、第一の“想定外”は、70年12月26日に東京都が出した八王子市に関する都市計画で、多摩校地が「市街化調整区域」に指定されてしまったことだ。 「市街化調整区域」とは開発が抑制される区域で、建物の建設などは原則として認められない。 ただし、既に開発を予定していた土地に関しては「告示から5年以内に着手すれば開発を認める」という経過措置があった。 つまり、「多摩校地を開発するならば、75年12月25日までに着手しなければならない」と決められてしまったのだ。 それを過ぎると校地として使えなくなると、中大は慌てて審議を再開した。 そうして、73年に「文系学部の昼間部を多摩に移転し、夜間部は駿河台に残ること」と「理工学部は後楽園に残ること」が決定した。 なぜ、ここまで大幅に計画が変わったのか? (中略) ■駿河台校舎よ、さようなら 多摩移転の2年後、80年3月22日、東京に名残りの雪が降る中、駿河台校舎の閉校祭が開催された。 最後を締めくくる提灯行列は3000人以上が参列し、「高張提灯、横断幕、校旗、応援団旗、オープンカー14台を先頭に正門より出発。 放送車から『長い間、大変お世話になりました』と感謝の言葉が繰り返され、参加者は雪降るなか、校歌、応援歌、中大節を歌い歩いた。」(『One Chuo』 2022.11.29号)。 ※全文は出典先で…