全てのレス元スレ 1: ◆jkwYf2kqc.:2022/12/25(日) 22:50:48.56 :+0YS1G0z0 人は誰しも、思い出を抱えて生きている。 一分一秒と命を燃やし続ける限り、側頭葉には続々と長期記憶が蓄積される。その際受け取った印象が鮮烈であればあるほど、記憶は顕在意識として深く刻み込まれる。 思い出の在庫というものは、各個人によって多い少ないの差はあれども、長い道のりを征く中で一方的に増え続けていくことになる。 思い出の抱え方は人それぞれだ。 地にめり込むほどに思い出を引き摺り回す人もいれば、スノーボードみたく軽々と思い出を乗り回す人もいる。そこには正解も不正解もない。正義に明確な答えがないことと同じなのだろう。 『われわれが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である。』 近世に名を上げた作家の一人であるジャン・パウルは、ある著書にこのような言葉を残した。 それはある側面では正しいことだし、もう一方の側面では酷く間違ったことだ、と僕は強く思う。 確かに、僕達は不意に立ち止まって、生き抜く中で必死にかき集めた思い出に浸り、ひと時の慰めを得ることはある。それはまさしく、誰にも干渉されず、また好きなだけ 引き籠っていられる素敵な憩いの場であると言えよう。その意味で思い出が楽園であることに疑いはないし、人が生きる上で、最後の絶対的な拠り所として思い出が君臨することにも異論はない。 だが別方向から眺めてみると、こうも考えられはしないだろうか。 もし、楽園の中に毒林檎が混ざっていたら?と。 楽園に長居すれば、人は必ず腹を空かせてしまう。これ幸いとよく熟れた林檎をもぎ取り、大きな口で瑞々しいそれを齧る。その瞬間、楽園で味わうはずのない苦痛の味が舌先に広がり、 辛抱堪らず顔を歪めてしまう。こんなものは食えたものじゃないと吐き出さずにはいられない。だがそれでは腹の虫は収まらない。そいつを宥めるために仕方なく、僕らはそこを発って食料を探しに行くことになる。 畢竟、他でもない自らが己を追いやる羽目になるのだ。 他の誰かに邪魔されることはないが、楽園であったはずの空間から逃げ出すのは自分自身である。それでも楽園で過ごした束の間の安楽は忘れられない。痛い目を見ると解ったうえで、僕らはまたそこに戻ってきてしまう。 要するに、思い出というものは酷く不合理な両面的存在だということだ。 もちろん、その霧の如く不確かで掴みようのないものをどのように捉えるかはその人次第だ。あくまでも僕はこう考えると言うだけの話だ。…