1 名前:七波羅探題 ★:2026/03/13(金) 23:07:34.31 ID:X1nEfTAs9.net All About 編集部3月12日 ◆奪われる高齢者の「移動の自由」 高齢者ばかりが交通事故を起こしているかのような印象操作をし、その原因を「認知症あるいは加齢による能力の衰えのせい」だと決めつけて、ほかの可能性については議論さえしない――。 テレビをはじめとするメディアのそのような報道姿勢のせいで、高齢者に免許返納を迫る強い社会的圧力が生み出されています。 公共交通機関が発達している都会の高齢者の場合なら選択肢はいくつもありますから、便利さが少し失われる程度の話で済むのかもしれません。しかし、地方の高齢者にとっての免許返納は、単なる「カードの返却」などではなく、生活の根幹に関わる重大な決断となります。 バスは1時間に1本あるかどうか、鉄道は車社会の補完にはならず、タクシーもほとんどつかまらないし、送り迎えを頼めるような人はいないという状況は決してめずらしくありません。そんななかで免許を返納すれば、生活圏が急激に狭まり、社会との接点も断たれ、自宅に縛られがちになります。 言い換えれば、それは「移動の自由」という基本的な権利を失うことにほかなりません。しかし不思議なことに日本では、そのことはあまり問題視されません。 アメリカでは免許を剥奪することに対しては非常に慎重です。なぜなら、移動の自由というものが基本的権利の1つとして重く見られているからです。だから交通違反の罰金は高額でも、免許そのものを取り上げるケースはかなり限られています。 実は日本でも、日本国憲法第22条の「居住・移転の自由」と第13条の「幸福追求権」の趣旨を踏まえ、判例・通説上、「移動の自由」は保障されると解釈されます。つまり本来であれば、慎重な手続きと正当な理由がない限り、国や行政が人々の移動の自由を制限することはできない、はずなのです。 にもかかわらず、日本では行政(警察)の裁量で免許を取り上げることが比較的容易に行われ、そのことを深刻に受け止める社会的感覚が欠けています。だから、「高齢になったら免許を返納するのが当然」という空気の力で、憲法上の権利と深く関わる重要な自由が、あっさりと奪われてしまっているのです。 日本人が、権利や自由というものにあまり執着しない背景には、「自らの手で勝ち取った」という歴史的な経験が乏しいという事情もあるのだと思います。 欧米諸国には、ときには流血も伴うような激しい闘いを経て、「国家に制限されない自由」や「国家に奪われない権利」を市民が獲得してきたという歴史があります。 しかし日本では、そうした市民革命や権利闘争の蓄積はほとんどありません。戦後に民主主義体制が導入されたとはいえ、それは自らの手で勝ち取ったというより、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領統治のもとで、言うなれば「外から与えられたもの」でした。 だから、国家が個人の権利を制限することに対して、強い反発が起こることはほとんどありません。行政による介入や制限が個人の自由を大きく制限するものであっても、「仕方ないこと」として受け入れてしまう人がほとんどです。 日本社会では「公共の利益」という言葉が出ると、それに逆らうことはわがままだと捉えられます。こうした空気が、「空気による統制」をより強固にする土壌となっているのです。 この傾向が如実に表れたのが、コロナ禍でした。本来であれば、外出や移動や面会といった基本的な自由を制限することは、非常に慎重でなければならないはずです。 ところが日本では、外出の制限、家族との面会制限、医療現場での立ち会い禁止といった強い制限が長期間にわたって課されても、大きな異議はほとんど出ませんでした。 もともと日本人は「かくあるべし思考」に陥りがちで、そこに「公共の利益」(感染拡大を防ぐ)という大義名分が加わったことで、「みんなが我慢しているのだから自分も従うべき」という同調圧力は一気に強まったのです。 SNS上には自粛警察なる人たちが現れて、それぞれの事情など一切無視して、「ルールに従わないこと」を激しく糾弾し、「重症化のリスクが高い」とされた高齢者の外出は不要不急だと決めつけられて、とりわけ厳しい目が向けられました。 老年医学の立場から言えば、家に閉じこもってばかりいることで足腰や脳の働きが弱ってフレイルや要介護状態になってしまうことが懸念され、うつ病を発症しやすくなる可能性も無視することはできなかったのに、「とにかく家から出るな」「人と会うな」という社会からの圧力に高齢者は従うしかなかったのです。 和田 秀樹(わだ・ひでき)プロフィール 1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。精神科医。 引用元:…