1: 七波羅探題 ★ X1nEfTAs9 2026-03-13 07:50:27 読売2026/03/13 07:00 明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉らが戦った「山崎の合戦」の当日、秀吉が自身に近い武将に送った書状が見つかった。「明日出撃し、陣を構える」とあり、その日に戦が始まると想定していなかったことがうかがえる。合戦の舞台となった山崎(京都府大山崎町)から10キロ以上離れた場所で書かれたとみられ、専門家は「秀吉は遅れて参戦した可能性が高い」としている。 書状のサイズは縦13・6センチ、横39・3センチ。軸装されたものを中京大が古書店から購入し、花押(サイン)などから、秀吉が姫路を拠点としていた小寺 職隆もとたか らに宛てた書状の原本と確認された。 光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582年6月2日)当時、秀吉は備中高松城(岡山市)で毛利氏と交戦中だったが、急きょ和睦し、「中国大返し」と呼ばれる強行軍で近畿に戻り、光秀を討伐した。 見つかった書状は合戦当日の6月13日付。当時、秀吉は山崎から十数キロ南西に位置する富田(大阪府高槻市)にいたとみられ、「明日(14日)、 西岡にしのおか へ出撃し、着陣するつもりだ」と告げている。西岡とは、光秀が拠点とした勝龍寺城(京都府長岡京市)のある一帯。情勢報告とは別に、留守にしている居城の手入れを指示するなど、文面には余裕も感じられる。 実際には最前線で両軍のにらみ合いが続いており、13日午後4時頃に山崎で開戦。光秀は織田家家臣の池田 恒興つねおき らの軍勢に押され、退却した勝龍寺城からも夜明けを待たず敗走した。 山崎の合戦は、秀吉が信長の後を継ぎ、天下人の道を歩む大きな節目として知られる。通説では、秀吉は13日に山崎に本陣を構え戦闘に参加したとされるが、書状を分析した中京大の馬部隆弘教授(日本中世・近世史)は「秀吉が着いた頃には、先発隊の活躍により、すでに大勢が決まっていた可能性が高い。秀吉は光秀が勝龍寺城に籠城するとみていたが、光秀は秀吉が着陣する前に決着をつけようと戦いに打って出たのだろう」と話している。…