
1: 煮卵 ★ rUAp8OhB9 2026-10-24 18:07:38 文化審議会は、大阪城天守閣を重要文化財に指定するよう文部科学省に答申した。(略) ■豊臣と徳川が混ざった摩訶不思議な建物 建築計画が持ち上がったのは昭和2年(1927)のこと。 大阪市では昭和天皇の即位を記念して、大坂城公園の設置と天守再建が計画され、それを市民からの寄付でまかなう方針が決められた。 予定どおりに150万円の寄付金が集まって計画は実行に移されたが、大阪市の方針は「秀吉の天守を復興させたい」というものだった。 とはいえ、いまの大坂城にある天守台の石垣は、徳川家が再築したもので、地下に埋まる豊臣大坂城のものとは場所が違えば、表面積も豊臣時代の約2倍ある。 しかし、上に記したように、当時はこの石垣を徳川が築いたということも、豊臣大坂城の天守台とは規模も構造もまるで違うということも、はっきりしていなかった。 そのあたりが曖昧なまま、京都府の技師で京都帝大教授だった天野俊一の指導のもと、大阪市土木局は『大坂夏の陣図屏風』を参考に、豊臣時代のより小さな天守の姿を、徳川による大きな天守台の上に再現した。 しかし、豊臣大坂城の天守と徳川大坂城の天守には、なにひとつ共通点はなかった。むしろ徳川家は、地上から豊臣色を抹殺するために大坂城もゼロから築き直したのであり、あえて豊臣大坂城の特徴は徹底的に消し去っていた。だから、結果として、摩訶不思議な建物が出現することになったのである。 ■「望楼型」と「層塔型」 豊臣大坂城の天守は、二重の大きな入母屋屋根の建物に小ぶりの望楼(物見)を載せた、天守としては初期の様式「望楼型」だった。『大坂夏の陣図屏風』を見ると、壁面は黒漆を塗った下見板張りで、金箔押しの瓦と金の破風飾りで装飾され、最上層の壁面には欄干より上に鷺、下に虎が金で描かれている。派手好きの秀吉の趣味が反映されたと思しき絢爛たる豪華さである。 ただし、大坂城天守が見える最古の絵『大坂城図屏風』に描かれた姿は、黒漆塗りの壁面に金で装飾された大きな木彫りの菊紋と桐紋が取りつけられ、『大坂夏の陣図屏風』に描かれた天守以上に金の装飾で覆われている。屋根の交差の仕方も異なる。 文禄5年(1596)に発生した慶長伏見地震では、伏見城(京都市伏見区)が壊滅し、大坂城内でも千畳敷対面所が倒壊した。大坂城の天守もこのとき大きな被害を受け、建て直されたか、大きく修復された可能性がある。だが、いずれにしても、絢爛豪華な望楼型であったことには変わりない。 一方、徳川大坂城の天守は、初重から上重に向けて、同じ形の床面を一定の比率で徐々に小さくして積み上げる、あたらしいシンプルな様式「層塔型」で建てられていた。また、壁面は白い漆喰で塗り籠められ、真っ白い外観だった。 要するに、両者はまったく異なる建築技法と発想の上に成立したものだった。規模も徳川大坂城のほうが、天守台表面積が豊臣大坂城の2倍というだけでなく、高さも12~13メートルほど高かった。ちなみに、徳川大坂城の規模で「望楼型」の天守は、史上に存在したことはない。 ■城郭の歴史とは無縁のトンデモ建物 さて、徳川の大きな天守台上に建つ「大阪城天守閣」は、典型的な「望楼型」で、『大坂夏の陣図屏風』に見られる鶴(屏風では鷺だが)や虎の装飾も施されている。しかし、壁面だけは黒漆塗りの下見板張りではなく、徳川時代と同じ白亜に塗り籠められている。 こうなったのは、昭和9年の段階では、豊臣大坂城と徳川大坂城の違いがわかっていなかったことが主因だが、ともかく大いなる「誤解」の上に成立した建築であることは疑いようがない。姿も様式も、城郭の歴史、天守の歴史においてどこにも存在したことがない「摩訶不思議な建物」とでも呼ぶほかない。 しかし、「大阪城天守閣」がこうしたトンデモ建築であることを知る人は、いまも少数派なのではないか。令和元年(2019)に大阪市で開催されたG20サミットで、当時の安倍晋三総理はこの「天守閣」を、「16世紀のものが忠実に復元された」と紹介したが、同様に思っている人が多いように思われる。 この「天守閣」を建てた当時の「誤解」が、この天守が建ち続けることで、修正される機会を逸している。 全文は↓ [PRESIDENT ONLINE] 2026/10/24(土) 6:15 ※前スレ…