『三国志』の時代の中国で、貴族や文人のあいだに大流行した粉薬がありました。鍾乳石や硫黄などの鉱物を砕いて作る「寒食散(かんしょくさん)」、別名「五石散(ごせきさん)」です。病気を治し、体を強くし、心まで晴れやかにする養生の薬として飲まれましたが、飲んだあとは冷たい物を食べ、冷水を浴び、歩き回って熱を逃がさなければなりません。作法を誤れば命に関わる、厄介な薬でした。 ※注:流行したのは魏晋南北朝(ぎしんなんぼくちょう)時代。後漢が滅んだ220年から、隋が中国を統一する589年までの分裂の時代で、文化史では「六朝(りくちょう)」時代とも呼ばれます。魏・呉・蜀が争った三国時代は、その最初の約60年にあたります。なお、火を使わず冷たい物を食べる中国の年中行事「寒食節」とは別のものです。 今日の知ってた? 🧪 寒食散(五石散)は、鉱物を砕いて作る粉薬。漢の時代から一部の病気の治療に使われ、三国時代の魏の何晏(かあん、249年没)が飲み始めてから、貴族のあいだで大流行した。何晏は「病気が治るだけでなく、心が晴れやかになる」と語ったと伝わる。 🧊 飲むと体が熱くなるため、冷たい物を食べ、冷水を浴びなければならなかった。薄着をして歩き回り、薬の熱を逃がす。酒だけは温めて飲む決まりで、「寒食(冷たい食事)」の名はここから来ている。 ⚠️ 激しい中毒症状を招き、命を落とす人が絶えなかった。自分も長く苦しんだ学者の皇甫謐(こうほひつ)が、その害と、飲んだあとに守るべき決まりを書き残している。 🪨 成分は鍾乳石・硫黄・白石英・紫石英・赤石脂の5つとされることが多い。ただし処方は一定しておらず、資料によって挙げる鉱物が違う。 背景:寒食散(五石散)とは 平凡社の『世界大百科事典』は、寒食散を「中国の六朝時代にさかんに服用された散薬」と説明しています。「散」は粉薬のこと。飲んだあとは、酒だけを例外として温かい飲食物をとってはならないので「寒食散」、基本的に5種類の鉱物を使うので「五石散」とも呼ばれました。 もとは漢の時代からあった薬で、一部の病気の治療に使われていました。誰が作った処方なのかは、流行した当時すでに分からなくなっていたようです。3世紀の学者・皇甫謐は、「華佗(かだ)だと言う人もいれば、張仲景(ちょうちゅうけい)だと言う人もいる」と書いたうえで、自分は張仲景の処方から出たものとみる、と述べています。華佗は『三国志』にも登場する名医、張仲景は医書『傷寒論』で知られる後漢の医師です。 流行のきっかけを作ったのは、魏の何晏でした。母が曹操の夫人となり、自分ものちに曹操の娘を妻に迎えた人物で、老荘思想を語り合う「清談(せいだん)」の祖、『論語集解(ろんごしっかい)』の編者としても知られます。5世紀の逸話集『世説新語(せせつしんご)』は、何晏の言葉をこう伝えています。「五石散を服用すると、ただ病気が治るだけでなく、心が晴れやかになるのを覚える」。同じ書物の注が引く『寒食散論』には、処方は漢代に始まったが使う者は少なく、魏の尚書(しょうしょ)だった何晏がはじめてすぐれた効き目を得て、それから世に大いに流行した、とあります。 皇甫謐も同じことを書いています。何晏がこの薬を飲み始めると「心は晴れやかになり、体力は強くなった。都じゅうがこぞって、この薬を伝え合った」。そして、こう続けます。「人々は目先の効き目を喜び、のちの害を見ていなかった」。何晏は249年に司馬懿(しばい)のクーデターで殺されますが、皇甫謐によれば「何晏の死後、飲む者はますます増えた。私もその一人だった」。 元スレッドのタイトルは、これを「娯楽用の有毒な薬物」と紹介しています。ただ、当時の文献でこの薬が語られるときの言葉は、まず病気の治療と養生です。王羲之(おうぎし)の書簡を調べた広島大学の佐藤利行氏は、五石散を魏晋の貴族の「服食養生(薬を飲んで体を養うこと)の中心」だったと位置づけています。一方で『世界大百科事典』は、何晏以後に爆発的に流行した理由として、「服用後の幻覚をたのしみ、また仙人となることができると信じられた」ことを挙げます。体を強くする薬、心が晴れる薬、仙人に近づく薬。その境目がはっきりしないまま広まったもので、現代の「ドラッグ」という言葉にそのまま重ねられる話ではなさそうです。 流行は長く続きました。作家の魯迅(ろじん)は、魏・晋から隋・唐まで飲む人がいて、唐より後にはいなくなった、と述べています。英語版ウィキペディアも、六朝から唐にかけて流行した薬と説明しています。 もう少し詳しく 成分は「これ」と言い切れない。いちばんよく挙げられるのは、鍾乳石(しょうにゅうせき)・硫黄・白石英(はくせきえい)・紫石英(しせきえい)・赤石脂(しゃくせきし)の5つです。『世界大百科事典』がこの5つを挙げ、隋の医書『諸病源候論(しょびょうげんこうろん)』も、この5つを朮(じゅつ)・防風・附子(ぶし)・人参・桔梗(ききょう)といった植物の薬と組み合わせて論じています。魯迅も同じ5つを挙げたうえで、「ほかにも別の薬を配合したかもしれない」と付け加えました。英語版ウィキペディアによれば、唐の医師・孫思邈(そんしばく)の医書に載る処方は、5つの鉱物に貝殻1種と植物の薬9種を合わせたものです。 元スレッドのタイトルが挙げる「蛍石・石英・硫黄」は、この系統の処方にあたります。紫石英は、紫水晶と訳されることも、紫色の蛍石とされることもある鉱物です。 タイトルの後半にある鶏冠石(けいかんせき)と辰砂(しんしゃ)は、出どころが少し違います。東晋の葛洪(かっこう)が書いた『抱朴子(ほうぼくし)』に、「五石とは丹砂・雄黄・白礜(はくよ)・曾青・慈石である」という一文があります。丹砂は辰砂(水銀の鉱物)、雄黄は日本でいう鶏冠石(ヒ素の鉱物)のこと。ただしこれは、不老不死の仙薬を作る材料として挙げられた「五石」で、寒食散の処方として書かれたものではありません。『日本医史学雑誌』に載った吉元昭治氏の報告(2003年)も、『抱朴子』の五石と『諸病源候論』の五石を、別々の顔ぶれとして並べています。 では、寒食散にヒ素や水銀の鉱物は入っていなかったのか。これも断定はできません。英語版ウィキペディアは冒頭で、ヒ素や水銀を含む毒性の強い物質と組み合わされることが多かった、と書いています。記録に残る症状の多くはヒ素中毒でも起こる、という研究者の指摘も紹介しています。吉元氏の報告は、古い処方では、ミョウバンにあたる礬石(ばんせき)と、ヒ素のもとになる礜石(よせき)が、字の形が似ているために混同されてきた、という明の本草学者・李時珍の指摘を取り上げています。その一方で、英語版ウィキペディアがいちばんくわしく載せている処方の復元案(ドイツの研究者ワーグナーによる13種類)を見ると、鉱物は鍾乳石・白石英・紫石英の3つだけ。残りは貝殻と、防風・人参・附子・桂皮などの植物の薬で、ヒ素や水銀の鉱物は入っていません。信頼できる資料に載る処方だけでも少なくとも6通りほどあるとされ、唐を最後に作られなくなった薬なので、正確な配合は分かっていないのです。 飲んだあとの決まりごと。服用の作法をくわしく書き残したのは皇甫謐です。その文章は『諸病源候論』に引用されて伝わっています。朝、温めた良い酒で薬を飲む。しばらくしたら冷たい水で手足を洗い、衣を脱いで冷水を浴びる。あとは「寒衣・寒飲・寒食・寒臥、極寒益善」。薄着をし、冷たい物を飲み、冷たい物を食べ、冷たい所で寝る。冷たいほど良い、という意味です。冷たい食事は昼も夜もなく、日に6、7回とってよいとされました。 じっとしているのも禁物でした。皇甫謐は、飲んだあとは体を動かすべきで、弱って寝込み、歩けない者は、助け起こしてでも歩かせよ、と書いています。薬の力を体に行き渡らせ、熱を散らすために歩く。これを「行散」といいました。 例外は酒です。皇甫謐は「酒は必ず澄んだ良いものを温めて」と書き、唐の孫思邈も「すべて冷たい物を食べ、酒だけは温めなければならない」と記しています。 皇甫謐は、この養生法が「人の理に背き、常の性に反する」ものだと認めていました。重ね着をするとかえって寒くなる、というように、ふつうの感覚と逆になる点を6つ数え上げています。しかも流儀は一つではありませんでした。『諸病源候論』は、「皇甫は冷やせと言い、廩丘公(りんきゅうこう)は温めよと言う」と、正反対の指導があったことも記しています。 苦しんだ人たち。皇甫謐(215〜282年)は、鍼灸の古典『鍼灸甲乙経(しんきゅうこういつきょう)』で知られる学者です。正史の『晋書』によれば、寒食散を飲んだものの体質に合わず、いつもひどく衰弱しました。あるときは悲しみと怒りのあまり、刃を手に自殺しようとして、叔母にいさめられて思いとどまっています。皇帝への上奏文には、自分でこう書きました。「寒食の薬を飲んで節度を誤り、苦しみ抜いて7年になります。真冬に肌脱ぎになって氷を食べ、夏は暑さに悶え、咳がこみ上げ、体はむくみ、手足はだるく重い」。 周りの被害も記録しています。一族の長互は舌が縮んで喉に入り込み、東海の王良夫は背中に悪性の腫れ物ができ、隴西の辛長緒は肉がただれて崩れ、蜀郡の趙公烈は身内を6人失った。「すべて寒食散のしわざである」。そのうえで彼は、自分の経験をもとに、先ほどの作法をまとめました。 作法を誤って亡くなった高官もいます。西晋で司空(しくう)という最高位の官職の一つに就き、地図作りでも知られる裴秀(はいしゅう)です。『晋書』は彼の最期を、寒食散を服用し、「熱い酒を飲むべきところで、冷たい酒を飲んだ」と記しています。泰始7年(271年)、48歳でした。皇甫謐も「河東の裴季彦」の死を書き残していて、字(あざな)を季彦といった裴秀のこととみられます。それによると、高い地位にあったので誰も強く意見できず、周りの者は救い方を知らないまま冷水を飲ませ、水を浴びせるばかりでした。冷えがひどくなり、「水の中で命が絶えた。まことに痛ましい」。 正史の『魏書』は、北魏を建てた道武帝(どうぶてい)についてこう記します。寒食散を飲んでいて、侍医が亡くなったあとは薬の発作がたびたび起こるようになった。晩年はそれがひどくなり、災いの知らせも重なって、何日も食事をとらず、朝まで眠れず、一日じゅう独り言を言い、臣下を疑って自分の手で打ち殺した、と。 「書聖」と呼ばれる東晋の王羲之も飲んでいました。佐藤氏の論文によると、王羲之の書簡に「あなたからいただいた五色石膏散を服用したところ、体は軽くなり、行動はまるで空を飛んでいるかのようです」という一節があります。その一方で、体調の悪さを訴える手紙も多く、朝に散薬を飲んだのに、ますます元気がなくなってしまった、と書いたものも残っています。 唐の孫思邈は、医書『備急千金要方(びきゅうせんきんようほう)』にこう書きました。朝廷でも民間でも、この薬で身を損なった人を何人も見てきた。だから、野葛(やかつ、猛毒で知られる草)を食べることはあっても、五石は飲まない。心ある者はこの処方に出会ったら、すぐに焼き捨てよ。長く手元に置いてはならない、と。 魯迅の読み解き。魯迅は1927年に広州で、魏晋の気風と文章、薬と酒の関係を論じる講演をしています。そこで彼は、当時の文人の暮らしぶりをこの薬で説明してみせました。薬を飲むと肌が熱を持ち、服に擦れて傷つく。だから体にぴったりした服は着られず、ゆったりした服を着るしかない。晋の人の緩い帯とゆったりした衣は、俗世を離れた高雅な姿だと思われているが、実は薬のせいだった。有名な人たちがみな薬を飲んでだぶだぶの服を着るので、飲まない人まで真似をしたのだ、と。 魯迅の話は続きます。靴は擦れるので、木屐(ぼくげき)という木の履物をはいた。新しい服は肌を傷めるので古い服を好み、洗えないのでシラミがわいた。だから当時は「シラミをひねりながら語る」ことが美談として伝わった。この薬は貧しい人には飲めないもので、その害毒は清末のアヘンと同じくらい。飲んでいるかどうかで羽振りのよさが分かった。東晋より後には、飲んでもいないのに道ばたに寝転び、「薬が回ってきた」と言って羽振りのよさを見せる者も多かった——。 どれも魯迅が講演で示した解釈です。服装の流行の理由として史料で確かめられた話ではないので、「魯迅はそう読んだ」と受け取るのがよさそうです。 日本最古の医学書にも載っている。日本に現存する最古の医学書『医心方(いしんぽう)』は、984年に丹波康頼(たんばのやすより)が中国の医書をもとにまとめ、朝廷に献上した全30巻の書物です。平安時代の写本は国宝に指定されています。このうち巻十九と巻二十が、石薬を飲む「服石(ふくせき)」にあてられました。巻十九は、寒食散や五石散の飲み方の節度を説く中国の医家の文章から始まり、巻二十には、発熱や頭痛など、飲んだあとの症状ごとの手当てが並びます。 巻十九に引かれた秦承祖(しんしょうそ)という医家の言葉が、この薬の性格をよく表しています。「水は舟を載せるが、舟を覆しもする。散は命を護るが、命を絶ちもする」。日本で実際にどれほど飲まれたのかは別の話ですが、知識としては平安時代の日本にまで届いていました。 「散歩」の語源なのか。日本では、「散歩」という言葉は行散から来ている、という話がよく紹介されます。ただ、この説を辞書で裏付けることはできませんでした。『日本国語大辞典』の「散歩」の項は、中世から漢詩文に用例があり、広く使われるようになったのは明治時代、と説明していて、五石散には触れていません。漢和辞典の『字通』が用例に挙げるのも、唐の詩人・韋応物(いおうぶつ)の詩です。 一方、「行散」という言葉については、魯迅が先の講演でこう述べています。六朝の詩に「城東に至りて行散す」とあるのがそれで、のちの詩人はいわれを知らずに、行散をただ歩くことだと思い込み、薬を飲んでもいないのに詩に使った、と。歩くことと薬が結びついていたのは確かですが、そこから日本語の「散歩」が生まれたとまでは言えない、というのが今のところ確かめられる範囲です。 海外の反応 1. 海外の名無しさん 「五石」は、ほかの霊薬の材料にもなっていたそうだ。急死して三日以内の人を生き返らせるという「太乙招魂魄丹」に、病気を治し、長く飲み続ければ不老不死になれるという「墨子丹」「綺里丹」「李公丹」……。おい、みんな、これに乗り遅れるわけにはいかないぞ。 ※注:どれも東晋の葛洪が4世紀に書いた『抱朴子』に出てくる仙薬です。ここでいう「五石」は丹砂・雄黄などの5つ。効き目は、もちろん書物の上の話です。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) 飲み続ければ不老不死になれるんだろ? だったら、その李公って人は、いまどこで何をしてるんだよ。 3. 海外の名無しさん(>>2への返信) 元気にしてるよ。薬のおかげでものすごく動きが速くなったから、いまは「ジェット」って名乗ってる。 ※注:カンフー映画で知られる俳優ジェット・リー(李連杰)にかけた冗談です。 4. 海外の名無しさん 体が熱くなって、冷水を浴びて、歩き回らないと命に関わる……。なんで自分からそんな物を飲むんだ。聞いているだけでつらいんだけど。 5. 海外の名無しさん(>>4への返信) 飲んでしばらくは感覚が鋭くなって、頭の回転が速くなったように感じたらしい。だから当時の知識人や政治家、文人のあいだで流行ったんだって。でも、そのあとに来るのは激しい痛みと、記事にあるような症状。なにしろ強い毒だからね。 6. 海外の名無しさん(>>5への返信) 感覚が鋭くなるのと、体が火照るのが同時に来るわけだろ。その組み合わせは、どう考えても遠慮したい。 7. 海外の名無しさん(>>4への返信) 当時の人には、一日じゅうネットの掲示板を眺めて時間をつぶすという、健康的な習慣が無かったからね。 8. 海外の名無しさん タイトルには「娯楽用の薬」とあるけど、説明を読むかぎり、楽しそうな要素がひとつも見当たらないんだが。 9. 海外の名無しさん(>>8への返信) 当時の人は遊びというより、体を強くする養生の薬のつもりで飲んでいた面が大きいみたいだよ。流行らせた何晏という人の言葉も、「病気が治るだけでなく、心が晴れやかになる」だし。健康法のつもり、というのがいちばん怖い。 10. 海外の名無しさん 子どものころ、強烈なミントのタブレットを一度に十何粒も口に入れて、味がなくなるまでなめてから、キンキンに冷えた水を一気に飲んでた。そのあとポケモンの布団にもぐり込んで、口の中がどうにかなったような感覚にひたるんだ。……うん、気持ちは分かるよ。 11. 海外の名無しさん(>>10への返信) うちの地元では、口の中で溶けるミントのシートに、いちばん強いミントガムを重ねて、水を飲みながらかんでた。で、そのまま真夏のオクラホマの裏庭でアメフト。いま思うと、何の修行だったんだろう。 12. 海外の名無しさん 「何度言えば分かるんだ、マリー。石じゃない、鉱物だ! ……ところでこの部屋、暑くないか?」 ※注:米国のドラマ『ブレイキング・バッド』で、鉱物集めが趣味の捜査官ハンクが、妻のマリーに言い返すセリフのもじりです。 13. 海外の名無しさん タイトルの後半にある「ヒ素水銀の鉱物として鶏冠石辰砂」って、何を言っているのかさっぱり分からないんだけど。誰か訳してくれ。 14. 海外の名無しさん(>>13への返信) 鶏冠石はヒ素の硫化物で、辰砂は水銀の硫化物。どちらも赤い鉱物だよ。辰砂は朱色の顔料の原料として昔から使われてきた。つまり「ヒ素や水銀を含む鉱物も入っていた」と言いたかったんだと思う。 15. 海外の名無しさん(>>14への返信) ただ、その2つを「五石」に数えているのは仙薬づくりの本のほうで、寒食散そのものの処方は資料によってばらばららしい。唐の時代を最後に作られなくなって、正確な配合はもう分からないんだとか。 16. 海外の名無しさん 辛い物が好きな人間としては、少し分かる。口の中が燃えたあとに来る、あの高揚感が目当ての半分だからね。軽い気付け薬みたいなものだよ。 17. 海外の名無しさん(>>16への返信) 辛さは慣れだから、少しずつ段階を上げていくと、辛さの奥にある味まで分かるようになる。コーヒーやワインと同じだね。ただし唐辛子のほうは、加減を間違えても翌朝つらいだけで済む。 18. 海外の名無しさん 熱い酒を飲むべきところで冷たい酒を飲んで亡くなった高官がいる、という話が正史に残っているのがすごい。決まりごとがややこしすぎて、偉い人でも間違えるんだな。 19. 海外の名無しさん 低体温症(ハイポサーミア)は知っていたけど、その逆の「高体温(ハイパーサーミア)」という言葉は、生まれて初めて見た。言われてみれば、あって当然なんだけど。 20. 海外の名無しさん(>>19への返信) 実際に体温が上がっていたのか、血管が広がって熱く感じていただけなのか、どっちなんだろう。そこが気になる。 21. 海外の名無しさん(>>20への返信) 1700年以上も前の薬で、処方も一つじゃないから、確かめようがないんだよね。分かっているのは、飲んだ本人たちが「冷やさないと危ない」と信じて、真冬に氷を食べていたことくらい。 22. 海外の名無しさん 熱で病気を治す、という発想そのものは近代にもあったんだ。1920年ごろには、梅毒が脳まで進んだ患者をわざとマラリアに感染させて、高熱で治療していた。考案した医師はノーベル賞を受けているよ。 23. 海外の名無しさん(>>22への返信) そこまで進んだ梅毒は、当時は何もしなければ助からない病気だったからね。危険を承知で試すだけの理由があったんだよ。 24. 海外の名無しさん 「体にいい」と信じて毒を飲んでいた話なら、20世紀のアメリカにもある。ラジウムを溶かした水が強壮剤として売られていて、愛飲していた実業家のエベン・バイヤーズは1932年に亡くなった。1400本も飲んでいたそうだ。 25. 海外の名無しさん 効き目はすぐに出て、害はずっとあとから来る。みんなが飲んでいるから自分も飲む。1700年前の話なのに、流行のしかたがいまの怪しい健康法とそっくりで、笑うに笑えない。 まとめ 三国時代に何晏が飲み始めて大流行した寒食散(五石散)は、病気を治し、心を晴れやかにする養生の薬として飲まれ、冷たい食事と冷水浴、温めた酒という作法とともに、多くの人を苦しめました。コメント欄では「なぜわざわざ飲むのか」という疑問に、「体にいいと信じて毒を飲んだ例は近代にもある」という声が重なっています。人々は目先の効き目を喜び、のちの害を見ていなかった。皇甫謐のこの嘆きは、いまも古びていません。 元ソース: 寒食散は、混乱の続いた六朝時代(220〜589年)の中国で流行した、有毒な娯楽用の薬物だった。成分には砕いた蛍石・石英・硫黄のほか、鶏冠石や辰砂といったヒ素や水銀の鉱物が含まれた。飲むと激しく体が熱くなるため、服用者は冷たい物を食べ、冷水を浴びなければならなかった The post 「飲むと体が熱くなるため、冷たい物を食べ、冷水を浴びなければならなかった」三国志の時代に大流行した鉱物の薬・寒食散(五石散)とは? appeared first on みんな知ってた?【海外の反応】.…