1: 煮卵 ★ lSOXlj4F9 2026-10-13 22:08:45 大阪府内各地で開催されている「だんじり祭り」で、だんじりの横転事故が相次ぎ、男性2人が死亡、関係者16人が重軽傷を負ったことが大きな波紋を呼んでいる。 例年、マスメディアで話題になる祭りだが、今回は死亡事故が連続したことと、その凄まじい現場の様子を切り取った動画がSNS上で拡散されたことから、「安全性に問題がある」「人命軽視ではないか」といった批判の声が上がった。 報道によれば、横転はいずれも、勢いよく曲がる見せ場「やりまわし」の際に発生した。だんじりのバランスを取る役「たかり」を務めていた50代の男性などが下敷きになり亡くなった。だんじりの重さは約4トンだったという。 ■参加者が「死の可能性を含むリスク」を引き受ける 起こった出来事だけを見ると、惨事そのものであり、人の営みである以上避けることができた点にのみ意識が向かいがちになるが、文化人類学的な視点からは、近代社会でありながらいまだ「祭り本来の法外な空間」を維持していることに対する単純な驚きがある。 「日常の法・秩序・安全規範が一時的に括弧に入れられる」「『やりまわし』という、明らかに制御不能になりうる行為が『見せ場』として肯定される」「参加者自身が『死の可能性を含むリスク』を引き受け、それを共同体の連帯や『男らしさ』『町の誇り』の証明に変換する」「観客もまた、その危険性をある程度織り込み済みで眺め、時に喝采する」――これらはすべて先の定義を満たす重要なポイントだからだ。 特に「たかり役」のようなポジションは象徴的で、「共同体の中心にあるシンボル(だんじり)に、自らの身体を直接預ける」行為そのものが、儀礼的な自己犠牲や共同性の確認になっている。死者が出ても「伝統だから」「神事だから」で継続される構造も、近代的なリスク管理の発想とは異質な、前近代的な価値序列が今に生きている証拠と言っていい。 ■伝統的な祝祭の本質は、カオスの中へと身を投じること かつて文化人類学者のヴィクター・ターナーが提唱した「リミナリティ(境界状態)」が示す通り、伝統的な祝祭の本質は、日常の規範や安全な秩序から一時的に脱出し、カオスの中へと身を投じることにある。また、社会学者のロジェ・カイヨワが以下に明快に論じているように、祝祭とは過酷な身体性や時に死のリスクすらも消費することで、平坦な日常を突破し「生」を再起動させる装置でもあった。 「祭り、長い幕間にたくわえられた富の浪費、法規と化した脱法規、仮面の力の伝染により逆転せられた全規範――それらによって眩量の共有は集団生活の紐帯、そのクライマックスとなる。それは社会の究極の基礎である。もっとも、社会はそれでもなお不安定なものである。 もし、こうした周期的爆発がなければ維持困難な、うっとうしく、あまり価値のない脆いつながり、それが社会というものだ。そのつながりをこのクライマックスは強化し、ふだんはほとんど全く個人的な心配事や家事やに気をとられている諸個人を、この周期的爆発が接近させ、結集させ、精神の交流をさせるのである」 (『遊びと人間 増補改訂版』多田道太郎、塚崎幹夫訳、講談社文庫)。 現代社会では、「死の危険性」が日常から徹底的に排除・管理されている。そうした環境において、数トンの木塊と一体になり、死と隣り合わせの緊張感の中で街を駆け抜ける行為は、参加者に対して極限状態における圧倒的な「生のリアリティ」と、他者との強固な連帯感をもたらす。「危険であるからこそ熱狂が生まれ、生の実感が立ち現れる」という根源的な心理メカニズムが、そこには働いている。 一方で、現代社会はあらゆる脅威を予見し排除しようとする「リスク社会」であり、個人の生命やコンプライアンスが最優先される時代になっている。この双方のギャップを著しく増幅させているのが、近年のSNSによる「可視化」である。ネット以前、だんじり祭りがはらむ過激さや事故のリスクは、地域共同体という閉じた文脈と独自の価値観の中で了解され、消化されていた。 しかし、SNSを介して痛ましい事故や過激な瞬間が切り取られると、その映像は地域固有の共通前提から切断され、「安全圏にいる不特定多数の視聴者」の日常的な倫理観のもとで評価されることになる。リスクを絶対悪とする外野(部外者)にとって、命の危険を許容する構造は「非合理的な狂気」と映り、強いバッシングを引き起こす動機となる。 続きは↓ [東洋経済オンライン] 2026/10/13(火) 16:30…